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リレーエッセイ 2012・秋冬
海苔増殖の温故知新 1/2/齋藤 壽典
明治15年の「海苔培養法」講演会

新海苔の季節到来ですが、海苔と言えば日本の食文化を象徴する食べ物で、かつては家庭の朝食には欠かせない食材の一つでありましたし、今でも老舗の蕎麦屋などで酒と焼海苔を注文し、海苔が下に小さな炭火の入った専用の木箱で宝物のように供されると、小さな1枚の海苔であっても、日本の食文化の味わい深さを心底実感し、ひとえに日本人であることの悦びを実感致します。

事程左様に、食の奥行きを感じさせてくれる海苔は、西暦702年(大宝2年)2月6日に大宝律令が発布された際、租税品の一つとして指定されていたことの由来から、2月6日は「海苔の日」とされておりますが、認知度が今一つ低く、同時期の節分における恵方巻きの知名度が年々高まっていることからすれば、これに乗じて「海苔の日」を広く一般に認知させ、海苔の消費拡大を呼び込む自助努力が必要かと思われます。

また、わが国における近年の養殖海苔生産量は80億~100億枚とされる一方で、贈答用高級海苔の消費の落ち込みや、安価な業務用消費比率の高まりによる平均単価の下落、「色落ち」海苔の発生、近隣生産国(韓国、中国)との市場競合といった諸問題を抱え、厳しい局面に立たされておりますが、こうした難局を切り開く活力を得るためにも、海苔増殖振興の故きを温ね、新しきを知ることも肝要と思われます。

さて、筆者の属する社団法人大日本水産会は、水産業の振興を図り、経済的、文化的発展を期することを目的として、明治15年(1882年)2月に設立されたわが国唯一の水産総合団体として位置付けられ、今年、晴れて130周年を迎えるに至った歴史ある組織であります。

その設立時においては小松宮彰仁親王殿下を会頭に奉戴し、長州藩士(松下村塾門下生)で明治の元老とも称された品川弥二郎子爵(第6代内務大臣)が初代幹事長(会長に相当)に選出されるという、誠に輝かしい歴史を有しております。

その長い歴史を有する大日本水産会設立当時の會報第2号(明治15年4月刊行)を開くと、「海苔培養法」と題する後年著名な代議士となった高木正年氏(江戸品川生まれで明治から昭和にかけての政治家、この当時若干26歳)の今でいうセミナー講演録が「この一篇は去る3月第1回小集会に於て演述せるものなるが、報告第1号に省きたればここに掲ぐ」との前書きで記されており、設立直後の第1回小集会テーマとされるほど、海苔増殖業は明治の殖産興業期における水産業を牽引する大きな期待を担っていたことが鮮明に記述されております。

大日本水産會報告第2号に掲載された講演録の漁場図
大日本水産會報告第2号に掲載された講演録の漁場図。図の上部が東京湾で、図の左が北、図の右が南になる。沿岸部には芝區、北品川宿、南品川宿、大井村の地名が、漁場には甲部、乙部の記載が見える。

この講演録冒頭の一節を記すと「会員諸君! 不敏(不肖)正年が此の水産会堂に於て我が東京地方の一大海産にして最も将来に望みを属する海苔培養の実験を説き、敢て諸君の清聴を煩し併せて水産家の注意を喚起せんと欲するは他なし。海産中最も其の資(もとで)を要せず、国益をして大ならしむるは海苔を培養するに如くものなきが故なり。蓋し、我が東京地方に於て海苔を培養するは僅々(たった)数町村に過ぎずと雖も、其の収額を問えば、一百万円の多きに及べり。而して本邦到る処海浜ならざるなく、河水の流過せざるなし。故に適当なる地味により慣熟したる手段を以て、之が培養を怠らずんば其の国家に益するは識者を俟(し)て後知るべきにあらず。故に今余が実験と老漁者の謂う所とを陳述して、以て廣く水産家に告ぐる所あらんとす。」と講演者は力説しているのです。

こう述べた後に、時期(ヒビ立の時期)、樹枝の種類、地味、晴雨の関係、海苔の種類及発生の期などを語り伝え、北品川の台場周辺を地味良好なる甲部とし、そこに隣接する大井村沖の乙部から不入斗村、大森村、麹谷村、羽田村にかけての丙丁部に至るまでの漁場図を掲げ、現代の識者にとっても興味深い海苔増殖論が説かれており、当時の海苔増殖にかける意気込みを窺い知ることが出来ます。

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