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リレーエッセイ 2012・春
海中漫歩 第三話 「乙姫の髪」 1/2/横浜 康継
「乙姫の髪」

「りゅうぐうのおとひめのもとゆいのきりはずし」つまり「竜宮の乙姫の元結いの切り外し」という意味になるこの言葉は、海中に生育するある植物の異名とされ、最も長い植物名としても知られている。

海中を漫歩しながら出会いたい人物はもちろん乙姫様である。その「元結いの切り外し」という意味の名を持つ植物とは?・・と期待したいところだが、この異名の主は、アマモという内湾や河口域の砂泥質の海底という、あまり美しくない場所に生える海草(うみくさ)の一種とされている。「乙姫の元結の切り外し」は、若い女性の豊かな髪の元結いが切れて風に吹かれる様子を彷彿とさせるが、現実のアマモ群落にはそのイメージがない。

写真6. 浅所のアマモの群落
写真6. 浅所のアマモの群落

アマモという植物名は「甘藻」に由来するが、この植物は「味藻」とも呼ばれ、また干してから積み重ねて海水を注いで焼くという製塩にも利用されたため、「藻塩草」という名でも親しまれてきた。甘藻・味藻・藻塩草という古来の植物名のいずれにも「藻」という文字が使われ、また植物学者が標準和名としたアマモの「モ」も「藻」に由来しているはずだが、植物学的にはアマモは「藻」ではない。しかし「藻」という文字はもともと「水中に生える植物」を意味していたため、植物学的に「藻」が定義されるまでは、アマモも「藻」だったのである。

植物学的な「藻」とは、「酸素発生型の光合成を営む植物からコケ植物・シダ植物・種子植物を除いたもの」というあまりにも漠然とした定義になってしまうが、カキなどの餌になるミクロな植物プランクトンからワカメなどの海藻までを含む植物の仲間と表現すれば、イメージが湧くだろうか。

アマモは「藻」には入らない三つの仲間(陸上植物)のうちの種子植物に属するのだが、約4億5千万年前に上陸した緑色のミクロな藻からコケ植物・シダ植物を経て出現した仲間が種子植物なのである。アマモは陸上の環境に最も適応したはずの仲間に属していながら海の底に生育している植物ということになる。つまりアマモは約4億5千万年前の故郷である海へ里帰りした植物と言える。その里帰りの時期は今から5千万年前頃だったらしいのだが、私たちの感覚では、せっかく陸上での生活に便利な根や茎を発達させ、乾いた空気中での雌雄の出会いも可能にする花という生殖器官まで持つようになったのに、なぜ海へ戻ってしまったのだろう、と不思議に思えてしまう。

「あまのじゃく」という形容がぴったりの植物と言えそうだが、同じような「あまのじゃく植物」としての海草は世界中で60種ほどが知られているという。これは専門家にとっても意外に少ない種数に思えるのだが、やはり「あまのじゃく」はどの世界でも希少なのだろう。私たち人類の属する哺乳類も植物より1億年ほど遅れて上陸した魚の子孫なのだが、この仲間の中で海へ里帰りした「あまのじゃく」がイルカやクジラなどである。

写真7. アマモの植物体
写真7. アマモの植物体

イルカやクジラは海産哺乳類そして海獣とも呼ばれる。アマモなどは海産種子植物と呼ばれ、そして専門家は海草とも呼ぶが、「うみくさ」と発音して海藻とはっきり区別するようにしている。しかし国語としての海草は「かいそう」とも発音され、ワカメなどの海藻からアマモなどの海産種子植物までを含む「海中に生育する藻や草の総称」とされている。つまり海草がワカメなどの海藻も含んでしまうことになるわけで、このままでは学校教育の現場でも「海草」という文字の意味が国語と理科で異なることになりかねず、入学試験などで混乱が起こることさえ懸念される。私の例を引くのは少し気がひけるが、2005年度の北海道立高校の入試問題に小著の新潮選書「海の森の物語」から2頁ほどが使われたという。それも理科ではなく国語ということなので、かなり心配してしまった。

息子さんが受験したという教え子から送られた北海道新聞の紙面で、使用された部分に「海草」という文字のないことを確認して一応安心したのだが、問題を解いてみようという気にはなれなかった。もし私の解答が紙面に示されている模範解答と違ってしまったらどうしよう、などという臆病風にも吹かれ、未だに一問も解かないままである。ただ使用されたのは「月と太陽が描いた抽象画」という私自身最も気に入っている節の一部だったので、非常に嬉しく思い、「俺もエッセイストとして通用するようになったか」などと自惚れたのだが、丁度そのころ出版社から、その本の絶版が決まったという通知を受けた。あまり「売れない」というのが最大の理由だったらしい。

「月と太陽が描いた抽象画」とは、月と太陽の引力で起こる潮の満ち引きによって磯の斜面にさまざまな海藻の横縞模様が描かれるという話で、潮の満ち引きする標高差2メートルほどの潮間帯という部分における上下方向の海藻の移り変わりは、陸上の低地から高山へかけての標高差2千ないし3千メートルの範囲における植物の移り変わりに匹敵し、そのため潮の引いた磯に立つ私たちは身長千メートルほどの巨人になった気分を味わえる、という壮大(?)な内容である。この話も「海中漫歩」にふさわしいので、いずれ登場することになるだろう。

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