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リレーエッセイ 2014・夏
海藻とつき合って50年 1/2/有賀 祐勝
小学校が無くなった

講演などの初めに自己紹介で「わたしは信州(長野県)の山の中の農家に生れましたが、小学校へ行っていないんです。小学校は無かったんです。」、「わたしは小学校を卒業していません。」と言うと、ほとんどの皆さんはびっくりした顔をされます。「小学校に行かなかったなんて、余程のド田舎で生れ育ったんですね。」とか「小学校を卒業しないで、よく大学まで行けましたね。」などと言われます。

私と同じ昭和9年(1934)生れの人たちの大部分は小学校を卒業していません。昭和9年4月初めから昭和10年3月末までに生れた子供たちが就学することになる昭和16年(1941)4月から小学校が無くなったのです。「小学校」に代わって「国民学校」と呼ばれるようになりました。国民学校初等科に入学し、片道およそ1里(4 km)の山道を藁(わら)ぞうり履きで毎日歩いて学校に通いました。雨の日には藁ぞうりを脱いで手に持って泥んこ道を裸足で歩くのが常でした。

入学した年昭和16年の12月8日には大東亜戦争(戦後は「太平洋戦争」と呼ばれる)が始りました。5年生だった昭和20年8月15日には敗戦(ふつう「終戦」と言われる)となり、その後学制改革が行われます。国民学校の最後は昭和22年3月末で、この時に国民学校修了(卒業)となりました。ですから、小学校には全く行かず、小学校は卒業していないのです。国民学校に入学し国民学校を卒業したのは私たちと同学年の者だけです。

学制改革の結果、昭和22年(1947)4月初めから「六三三四制」(略して「六三制」あるいは「六三三制」とも言われる)の実施となりました。6年制の小学校が復活し、中学校3年、高等学校3年、大学4年という新しい制度の出発でした。この新制中学発足当初は、敗戦後間もないこともあって、校舎(教室)も先生も大幅に不足した状態で本格的な学習をする環境にはなく、天気の良い日には校庭でよく遊ばせて(「体育」の時間という)もらいました。その状況は「六三制野球ばかりが強くなり」という一句がよく示していると思います。

遠足には海苔の“おむすび”

山村の国民学校では特に遠方から通わなければならない低学年の子供たちのために分教場(分校)が設けられていました。本校から1里(4 km)ほど離れた私の集落の子供たちは1年生から本校に通いましたが、本校から2里(8 km)以上も離れた集落の1年生と2年生のために分教場があり、また隣村にも本校から遠く離れた集落の1年生~3年生のために分教場がありました。春と秋には遠足があり、私たち本校の1年生・2年生はこのような分教場へ遠足で行くのが習わしになっていました。都会の学校の遠足と違って乗り物を使うのではなく、早朝に学校を出発してから午後に学校へ戻るまでの全行程(8~15 km)を歩くのが常識で、母が作ってくれた昼食のおむすび(おにぎり)と水筒を持って時々休憩をとりながら歩き続けるものでした。この全行程を歩くというのは高学年の遠足でも同じでした。

70年以上前の“おむすび”の様子を再現してみました。

おむすびは大人のご飯茶碗に山盛りにしたご飯を握った大きなもので、いわゆる三角おにぎりではなく丸いのが普通でした。中に梅干しが1個入っており、まわりに軽く塩味をつけて海苔で包んだものと、まわりに味噌を塗って囲炉裏(“ひじろ”と言っていた)の“おき”(熾・燠)で焼いたもの(焼きおにぎり)です(写真参照)。それぞれ1個ずつ計2個を筍の皮で包み、さらに新聞紙で包み、リュックサックに入れるかあるいは風呂敷包みにして肩にかけたり、腰にまいたりして持ち歩きました。

おにぎり用の海苔は乾し海苔をそのまま使ったのか焼いてから使ったのか今ではよく思い出せませんが春の遠足だけで、秋の遠足には焼きおにぎりだけだったように思います。これは恐らく秋の遠足まで海苔を良い状態で保管するのが当時は難しかったからでしょう。海苔は大きめの茶筒に入れて保管してありました。黒(くろ)海苔ではなく青海苔(ヒトエグサ?)のおにぎりを作ってもらったこともあったように記憶しています。

信州のド田舎では戦前、戦中、戦後を通して海苔は貴重な食品の一つであっただろうと思われますが、遠足の時以外に海苔が使われるのは集落の神社のお祭りなどお祝いの時の海苔巻きでした。大抵は太巻き寿司を自分の家で巻いてお客さんに出していました。

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