海苔の等級を決める検査員は信州の出身者が多く、その代表的な人達は諏訪の原村出身だということを教えられたのは東京水産大学に勤務するようになってからでした。冬の農閑期の出稼ぎに信州から東京の大森あたりの海苔屋さん(生産者)に出かけた人たちの中から海苔の検査員が育っていった歴史があり、今日に至っているわけです。諏訪は私の生まれたド田舎からは有賀峠という峠を越えて行き来することが昔から行われていました。海なし県に生まれ育った私たちは諏訪湖のことを単にウミ(みずうみ)と呼んだりして、子供のころは本物の海のことを全く知りませんでした。大部分の小学生は6年生の修学旅行で初めて海を直接見たのです。この海はたいてい日本海(新潟県直江津など)の海でした。
私たちの学年は戦後間もなくのため国民学校6年生の修学旅行は無く、中学3年生になってようやく初めて海を見たのです。それは中央線で辰野から甲府まで行き、甲府から身延線で富士に出て、東海道線で静岡までという長時間の汽車の旅で(帰りは逆コース)、清水に宿泊して三保ノ松原と三保海岸の海を見るというものでした。生れて初めての海で、海の水は諏訪のウミと違って確かに塩辛いということをこの時に初めて体験しました。
昭和28年(1953)4月に東京に出てきて大学に入学しました。臨海実習で伊豆下田の臨海実験所で海藻関係の実習があり、初めて海藻に直接接する機会を得ました。これ以後、海藻に接する機会は少しずつ増えましたが、本格的に海藻を研究対象としたのは東京水産大学に勤めるようになってからです。以後、ノリ、ヒトエグサ、アオノリ、コンブ、ワカメなど食用海藻とのつき合いが多くなりました。
年末にお歳暮用の新海苔を注文して宮城県の海苔生産者から特別に研究室に届けてもらい、学内の皆さんと分けたことも何年かあり、その時は研究室いっぱいに新海苔の香りが何日間も満ちていました。その頃の宮城県産の海苔はほとんどがアサクサノリで、松島湾や仙台湾では年内は良い色のノリが育ちましたが年が明けてからは決まって“色落ち”が発生していたように思います。
このような新海苔の香りは勿論焼く前の乾し海苔の香りです。近年では、ほとんどの海苔は焼き海苔の状態で流通しているので、焼く前の乾し海苔を手に入れるのは難しくなっています。また、宮城県の海苔養殖場でも現在はほとんどがスサビノリを養殖しています。アサクサノリでなくスサビノリ主体の養殖になったので香りが少なくなったのかどうかはまだ明確にされていません。私は、乾し海苔を作る乾燥過程が大きく関係しているのではないかと思われてなりません。かつては海苔抄き後の海苔をかなりの時間をかけて天日乾燥していましたが、現在ではすっかり機械化が進んで全自動乾燥幾による短時間の乾燥で乾し海苔が作られます。時間をかけて天日乾燥している間に香り成分が徐々に増加してくるような可能性は無いでしょうか。また、全自動乾燥の初めの段階でスポンジでプレスして脱水する時に裁断したノリ片を押し付けてしまうために硬い乾し海苔に仕上がってしまう可能性は無いでしょうか。このようなことに着目して、乾し海苔の香りや柔らかさ(硬さ)の研究を進めてくれる人はいないでしょうか。美味しい海苔を作ることももちろん重要ですが、香りのある海苔や柔らかい海苔をつくるための研究も忘れずに是非推進していただきたいものです。これが、ひいては美味しい海苔をつくることにもつながるのではないかと考えています。
執筆者
有賀 祐勝(あるが・ゆうしょう)
一般財団法人海苔増殖振興会副会長、浅海増殖研究中央協議会会長、公益財団法人自然保護助成基金理事長、東京水産大学名誉教授、理学博士