多くの博物館には植物のおしば標本が沢山保管されています。植物体全体あるいは植物の枝や葉を圧して乾かした標本のことを学術的には「腊葉標本」(さくようひょうほん)と言います。現在、「おしば」は「押し葉」または「押しば」と書かれることもしばしばです。海藻は海中に生育する植物です。海藻の標本は、大部分は「おしば標本」として保管されていますが、「おしば」にするのが困難な海藻はホルマリンやアルコールなどに浸けた「液浸標本」あるいは巻物状の「乾燥標本」として保管されます。また、大型の海藻をグリセリンに浸けて、体内に含まれる水分をグリセリンに置き換えて半乾きにした標本もあります。
海藻のおしば標本は、海で採集した海藻をしばらく真水に浸けて塩抜きしたものを使います。日本では塩抜きするのが普通ですが、海外では塩抜きしない場合が多いようです。塩抜きしないと、梅雨時などに湿気を吸ってしまい、乾燥状態の保存がうまくできないからです。普通、台紙と呼ばれる少し厚手の模造紙をあらかじめいろんな大きさに切って用意しておき、トレイ(あるいはバット)に張った水の中で海藻を台紙の上にピンセットなどを使ってきれいに広げ、台紙ごとすくい上げるようにして水を切り、吸水紙に挟んで乾燥させて作ります。多くの場合、海藻自身が持っている粘質物によって海藻は台紙にぴったり付着します。吸水紙に挟むとき、あらかじめ用意しておいた布片(さらし木綿、テトロン混紡のテトロンブロードなど)を台紙の上の海藻の上に広げて被せ、海藻が吸水紙に付着するのを防ぎます。海藻は含有する光合成色素の種類と量によって多様な色彩を示しますから、多様な色彩に富んだ大変美しい海藻おしば標本が出来上がります。(図1)
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チガイソ(褐藻)
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アナアオサ(緑藻)
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ニセフサノリ(紅藻)
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アヤニシキ(紅藻)
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クロキヅタ(緑藻)
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タマイタダキ(紅藻)
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ワカメ(褐藻)
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ウスバアオノリ(緑藻)
これまで知られていなかった新しい海藻が発見されると、新種として新しく名前が付けられます。国際的に通用する名前は正式にはラテン語で表記されます。その海藻の特徴の記述と共に学術誌に記載されますが、そのもとになった海藻のおしば標本は「基準標本」として保管されなければなりません。名前が付けられた海藻の基準標本は世界のどこかの博物館や標本室(ハーバリウムと呼ばれます)に必ず保管されており、その後のいろんな研究に利用されています。このようにおしば標本(特に基準標本)は非常に大切で貴重なものです。
もともと学術的な必要性から作られて保存されるようになったおしば標本ですが、海藻は多様な色彩に富んでいるので、丁寧に作られた乾燥おしば標本は大変美しいものです。美的センスのある海藻研究者が作製したおしば標本は、作製直後は芸術作品の絵画のように額に入れてとっておきたいと思うような見応えがあります。しかし、残念なことに、普通の海藻おしば標本は時間経過とともに色褪せてしまいます。海藻に含まれている色素(クロロフィル、カロテノイド、フィコビリンなど)が徐々に分解するからです。それでも、保存庫の湿度をできるだけ低く保ち、光にできるだけ当てないようにすれば、比較的長期間にわたって色彩を保つことができます。場合によっては、海藻の種類にもよりますが、おしばにする前に薬品処理すると退色を比較的長期間防ぐことができます。
海藻研究のかたわら、芸術的なおしば標本の作製に心を配ったのが筑波大学下田臨海実験センターに長く勤務しセンター長も務めた故横濱康継さんです。いろんな海藻の美しいおしば標本を作って額に入れ、芸術品として展示することを1970年代後半から始めました。国際学界での最初のデビューは1981年8月にオーストラリアのシドニーで開催された第13回国際植物学会議(IBC)の会場でした。その芸術品的レベルは学会参加者の注目を集めました。その後、東京のデパートのギャラリーなどでも美しい「海藻おしば展」が開かれました。
横濱さんの「海藻おしば標本」を大きく発展させたのが、現在の海藻おしば協会会長の野田三千代さんです。野田さんは女子美術短大卒のグラフィックデザイナーですが、筑波大学下田臨海実験センターで横濱さんに出会い、海藻の学術的な標本を作るとともに海藻の魅力に取りつかれて、カラフルな海藻標本を芸術的レベルに高め、「海藻おしば展」を何度も開いてきました。さらに海藻おしば作製を通した環境教育にまで発展させて活躍しています。海藻おしばの作製を一般に普及させるために「海藻おしば協会」を設立しました。海外にも海藻おしば作製の指導のために招聘されて出かけています。国内では小中学校をはじめ数多くの教育関連機関などから依頼を受けて「海藻おしば教室」を開いておしば作製の指導を行うとともに、海の生態系における海藻の重要性をやさしく解説することにも大いに貢献しています。海藻おしば作りは、子供たちの情操教育や環境教育の場となるだけでなく、社会人の環境教育にも多大の貢献をしています(図2)。このような社会貢献により、野田さんは幾つもの賞を受けています。また、海藻おしば協会のもう一つの特徴は、「海藻おしば教室」で野田さんの講義を聴き、おしば作りの講習を受けて育った「認定講師」が、日本の各地で「海藻おしば教室」を開いて、おしば作りの技術の普及に努めていることです。
海藻おしばは非常にカラフルなので、額に入れた芸術品だけでなく絵はがきや栞(しおり)としても好評を博しています(図3)。海藻おしばは乾燥して仕上がった直後にカラー写真を撮っておくと、生きていた時とほとんど変わらない色彩を写真として保存できます。また、近年のカラーコピー機の技術的進歩は素晴らしいので、おしばのカラーコピーをとっておくと、海藻によっては本物と遜色のない、場合によっては本物以上に美しい微妙な色彩を保存しておくことが可能です。さらに、おしばそのものやコピーをラミネートして保存するのも長持ちさせる秘訣です。