まちなかで男か女かわからないが心惹かれる若者を見かけ、「ボーイッシュな女の子!」と思って声をかけたら、「私は男でも女でもありません」という答えが返ってくる。人間の社会でこんなことはあり得ないのだが、海藻を含む植物の世界では雄でも雌でもない個体がごくふつうに存在しているのである。
ヒトをはじめとする動物では、雄と雌という両親から生まれる子はやはり雄か雌になる。しかし植物の世界では、雄と雌という両親からは雄でも雌でもない子が生まれ、そして孫は雄か雌になるというように、性の有る世代と性の無い世代とが交代するのである。このような植物の「世代交代」は高校の生物の授業では勉強しているはずなのだが、定期試験や大学入試が終わるとすっかり忘れてしまう。けれどもこれは私たちにも大変身近でしかも重要なことなのである。
ワカメの「めかぶ」は都会でも手に入る健康食品として親しまれるようになったが、これはワカメという植物の生殖器で、ここからは卵でも精子でもない胞子と呼ばれる細胞が放出される。ただこの胞子は2本の鞭毛を振って海水中を泳ぐので遊走子と呼ばれている。植物の細胞のはずの胞子が動物のように泳ぐ。これだけでもおどろきなのだが、植物の世界はもっと驚くべき現象にあふれているのである。
みそ汁の具などになるワカメは秋に芽生え春先には長さ1~2メートルに成長するが、春が近づいた頃に生殖器官としての「めかぶ」が根元近くに形成され、成熟するとそこから遊走子という「泳ぐ胞子」が無数に放出される。遊走子をすっかり放出したあとのワカメの体は枯れてしまうのだが、遊走子は海底に付着して発芽し、雄か雌になる。そして秋になると雄から放出された精子が雌の体に形成された卵へたどり着いて受精し、受精卵は発芽して成長し、やがてめかぶを形成し、そこから遊走子が放出されるというわけである。
ワカメの場合、秋に芽生えて冬のあいだに成長し春にめかぶを形成する体は、雄でも雌でもない無性の体なので、この世代を「無性世代」と呼ぶが、雄でも雌でもない無性の体は胞子を放出するという意味で「胞子体」と呼ばれる。そして胞子(遊走子)から芽生えた雄と雌の世代は「有性世代」と呼ばれ、雄と雌の体は「配偶体」と呼ばれるが、これらのワカメの配偶体はミクロな毛状なので肉眼では見えない。そのためワカメは春を過ぎると消えてしまうように私たちの目には映るのだが、実際には微細な毛のような体になり、薄暗い海底でひっそりと夏を越すのである。
なぜワカメは巨大な胞子体とミクロな配偶体という妙な親子関係を繰り返すのかと、不思議に思うだろう。こんなことをだれが見つけたのかと、少し呆れた思いにもなるかもしれない。ワカメがどのような親子関係を繰り返そうと、私達の生活には何の関係もなさそうなのに、これほど詳しいことを「発見」してしまうなんて、よほどの暇人の仕業なのではないか、と思う人も多いだろう。そして、そんな「暇人」のほとんどは国民の税金で生活し研究を続けている大学の教官や研究所あるいは水産試験場の職員なので、その典型のような私は「税金ドロボー」と言われてしまいそうである。最近は我が国の政府首脳から文部科学省の上層部までがそのように思い始めているらしく、そのため「ワカメは春に枯れてから秋に芽生えるまでどこにひそんでいるのだろう」というような純粋な疑問が原動力の「役に立ちそうもない研究」を志向する研究者は、日本の大学などではとても居づらくなり、今や「絶滅」の危機に瀕しているのである。
今日の日本で私たちが食べているワカメも海苔も、そのほとんどすべてが養殖されたものなのだが、これらの海藻の養殖技術はワカメやアサクサノリの仲間の親子関係が明らかにされたために確立されたのである。しかし海藻の親子関係などについての研究のほとんどは、「なぜ」という純粋な疑問から始まるのである。その結果がたまたま養殖技術の開発に貢献したとしても、子供のように好奇心旺盛な研究者にとっては副産物にすぎない。生物学をはじめとする「役に立たない」基礎科学の研究者にとっては「なぜ」がすべての原動力であり、この「なぜ」は「なぜ私たちは存在するのか」というヒトという生物にとっての根元的な問題にまで迫る性質のものなのである。
「ボーイッシュですてきな女の子?」で始まった話が大分それてしまったので、元へ戻そう。