海苔養殖は我が国ばかりでなく韓国でも盛んだが、我が国におけるその歴史は300年ほど前までさかのぼるという。江戸時代における海苔養殖の発祥とその後の発展の歴史については、故片田實東京水産大学名誉教授の名著「浅草海苔盛衰記-海苔の五百年-」(成山堂書店1989年刊)に詳しいが、海苔の養殖は、簀立てなどの粗朶(そだ・雑木の枝などを海底に挿したもの)に付いて生長した海苔を採取することから始まったという。そして1710年代には積極的に海苔を育てるための粗朶が立てられるようなったらしいが、有名な安藤広重作「名所江戸百景」(1856~1857)120枚の一つとしての「南品川鮫洌(洲)海岸」(株式会社山形屋海苔店所蔵)に見事な海苔養殖場の風景が描かれている(図4参照))。
浅い海底の砂泥地に粗朶を立てると、いつの間にか海苔が生えるので、木の皮(樹皮)と肌(はだ・木部)との間から海苔は自然と芽生えると信じられたり、波に乗って打ち寄せられた海苔が粗朶に引っかかる、と思われたりしていたらしい。滝沢馬琴(1767~1848)の「南総里見八犬伝」にも「その海苔を採るに、波打ち際より十数間水中に多く柴を建てて、かきの如くになしおけば、波にゆらるる海苔日日この柴に掛るを採ってすき且乾して売るを地方の名産とす」と記されている。そして海苔が日日(毎日のように)柴に引っかかるというので、その柴(粗朶)を「ひび」と呼ぶようになったとも記されているが、将軍家に日日(毎日)上納する活魚を畜養するための生け簀(粗朶で囲う)に由来した、という説もある。しかし、いずれにしても「ひび」の語源は「日日」ということになるだろう。
柴を海中に立てれば、その肌から海苔が生える、あるいは漂ってきた海苔が引っかかると思われていたというわけだが、粗朶を建て込む時期はモクセイの花が咲きにおう時がよい、などということが経験的にわかり、海苔がよく付く場所、あるいは付きはよくないが品質のよい海苔が育つ場所というような、水域の特性なども徐々に明らかになったようである。
海苔養殖は自然頼みの職人芸として、江戸時代から明治維新過ぎまで、ほとんど変わらない形で受け継がれたのだが、その海苔養殖の方法を画期的に変化させる発見が、明治11年(1878年)に、上総海苔の大産地だった千葉県君津郡でなされた。この年の秋に、芽はよく付かないが品質のよい海苔が育つ河口域で、立てたばかりの粗朶が暴風で多く流失したため、芽は濃く付くが品質のよい海苔は育たないという場所から粗朶を移植したところ、良質の海苔がそれまで見たこともないほどによく繁茂したという。これは後に言う「胞子場(たねば)」の最初の発見だったのである。
江戸時代から続いた海苔養殖では、粗朶を移植することはなかったので、たまたま行われた暴風被害対策としての粗朶移植が大発見をもたらしたということになる。この大発見の主は、青堀町に住む平野武次郎という人で、普段からいろいろの工夫を試みていたという。しかしこの発見は「企業秘密」とされたらしく、約20年後に、我が国の藻類学の創始者である岡村金太郎博士の勧めによって、ようやく公表されることになった。
粗朶移植の成功は、それまで「木の皮と肌との間から海苔はわき出てくる」と信じていた漁業者達に「タネは限られた場所から流れてきて粗朶に付く」と気付かせることになった。その頃から大正にかけて各地に設立された水産試験所(現在では水産試験場)などの指導で、胞子場(たねば)が開発され、粗朶の移植も進んだが、いったん胞子場へ植えたあとに引き抜いて養殖の適地へ運んで植え直すという作業が必要になってからは、それまでの「ひび」としての粗朶は非常に扱いにくい存在となり、移植に適した「ひび」の開発が大きなテーマとなった。
実際に「ひび」の改良が始まったのは、昭和に入った1930年前後頃からである。我が国と同様に海苔を養殖していた朝鮮半島では、早くから竹製の「すだれひび」が広まっていた。「大日本帝国」の統治下にあった全羅南道水産試験場の金子政之助という人がそれを改良して、割竹を簀の子状に編んだ「ひび」を水平に吊す方式を考案し、実際の養殖試験でもよい結果が得られた。
一方同じ頃に国内では、わらやシュロなどの繊維を撚った縄に海苔がよく付いて生育することから、「網ひび」が考案され、それを水平に張った養殖試験でもよい成果を収めた。「網ひび」の開発に関する試験はおもに東京湾で行われたが、宮城県でも水産試験場の神崎陽吉氏によって、「粗朶ひび」との比較試験が行われ、「網ひび」の優秀性が証明されたのである。
多くの先人達の苦労によって、「網ひび」の利点は明らかにされたが、朝鮮半島に比べて干満の差が小さい我が国の沿岸では、海苔の付着層(アサクサノリの仲間は一般に干潮時に干上がる場所の限られた範囲に生育する)が狭いので、「網ひび」を固定する適正な高さを見つけるのが難しいという問題が浮上した。そしてこの難問を解決するために採られた方法は、我が国の海苔養殖史上で最も記念すべきほどに劇的なものとなった。