昭和10年(1935年・奇しくも私の誕生年)、千葉県千種村青柳地先の中央水産試験場試験地でとらえた海苔養殖の最適水準面を東京湾内の各浦に伝える、という大規模な行事が敢行されたのである。湾内の各組合は漁場のあちこちに標柱を打って待機し、青柳地先で海面がその水準面に達した瞬間に花火を打ち上げ、花火は浜から浜へ次々に打ち上げられるという方式で「その時」を知らされた組合員は、それぞれの標柱にしるしを付けた。東京湾を取り巻く無数の浦を次々と花火が狼煙(のろし)のように伝わってゆく様子は、想像しただけでも胸が躍る。是非見たかったと思うのだが、その年の6月2日に千住という東京の下町で生まれた私は、生まれたての嬰児として、あるいは母の胎内で、10キロほど離れた荒川河口あたりから響く花火の音を聞いていたに違いない。
運搬もしやすい「網ひび」による養殖法が開発されて、胞子場は以前にもまして重要な存在となったが、タネ(発芽してから「海苔」に育つ胞子)がどこでどのようにして生まれるのかということは、国内の水産植物学者の総力を挙げての研究によっても不明のまま、という状態が終戦後まで続いた。海苔の雌の体から胞子(実際は雌に寄生したままの短命の子の全身が分裂してできた)が放出するところまではわかっていたのだが、その後の胞子の行方は不明のままだったのである。
終戦直後の1949年10月、カサリン・マーガレット・ドリュー女史というイギリスの著名な藻類学者が「ネイチャー」という科学雑誌に発表した論文は、「チシマクロノリ(海苔の一種)の雌から放出された胞子を貝殻に付着させたところ、発芽して貝殻の中に潜り込み、すでにコンコセリスと命名されていた海藻と全く区別のつかない菌糸状の体になった」という内容だった。これこそ日本の研究者が探し求め続けてきた海苔の「雌雄の体の孫」であり、この孫の体から放出される胞子が「ひび」に付着して「海苔」になるタネであることは確実と言えた。
海苔養殖改良のための試験研究に日夜苦労を重ねてきた日本の全ての水産植物学者たちにとっては、まさに晴天の霹靂と言える論文の発表だったのだが、長年探し求めていた「海苔」の孫にあたる「タネの放出主」が、海底に転がった貝殻を黒紫色に染めるコンコセリスという目立たない海藻と同じだったということも、全く「灯台もと暗し」そのままに衝撃的だったろう(この時点で「コンコセリス」は種名としての資格を失い、海苔の仲間の雌雄の孫にあたる世代を呼ぶ名となった)。そして胞子場とは、アサクサノリのコンコセリス世代(糸状体)の増殖した貝殻がたくさん転がっている場所だ、ということがわかったのである。
ただドリュー女史は、「コンコセリス」の菌糸状の体に胞子嚢(胞子が作られる袋)と思われる肥厚した細胞が形成されるところまでは観察したが、胞子の放出は確認できなかった。そしてここから先の研究は、我が国の研究者たちによって猛然と進められることになったのである。
「コンコセリス」から胞子が放出されること、その胞子が「ひび」に付着して「海苔」に成長することなどは、たちまち明らかにされた。やがて、春に雌の「海苔」から放出された胞子をカキ殻に付着させて、カキ殻を秋まで陸上の海水プールにのれんのようにして吊し、増殖した「コンコセリス」から放出される胞子を「網ひび」に付着させる、という「人工採苗(たね付け)法」が確立し、これが1960年頃には全国に普及したのである。
当時、水産植物学者たちは海苔養殖の改良を目標として懸命に研究を続けていたのだが、我が国における海苔養殖の発祥から約300年ものあいだ謎だった海苔のタネの放出主が、海苔養殖の改良など全く目指していなかった外国の研究者によって発見されたという事実は、基礎科学の役割の一面を見せつけてくれたと言える。基礎科学とは「自然界の謎を解きたい」という情熱だけが研究の推進力となる学問である。生物学も基礎科学の一分野なので、生物学者の端くれの私などは、毒にも薬にもならない興味本位の謎解きのような研究を、50年以上ものあいだ続けてしまった。そして研究成果がドリュー女史のように「偶然」産業の役に立ってしまう、などということもないままである。しかし「たまには産業の役に立つこともある」ということだけが基礎科学の価値のすべてではないと私は確信している。
科学の共通目標は「真理の探求」と言える。産業の役に立たない新発見など「人の役に立たない」と思われがちだが、自然界におけるどんなに小さな真理でも、それが解き明かされることによって、「人とはどんな存在なのか」ということが、より一層明らかになるのである。山田洋次監督の名作映画「男はつらいよ」の何作目かで、渥美清演ずるフーテンの寅さんが美人女優演ずる相手役に、「学問てのは己を知るためにするものよ」とたんかを切っているが、記憶にある方はおられるだろうか。
教え子から新茶が送られてきたので、贈答品の両横綱と言えそうな緑茶と海苔の比較論を始めたのですが、私は長年海藻についての研究だけを続けてきたためか、つい海苔の方に力が入りすぎてしまいました。私自身この原稿のために資料を調べ直してみて、海苔養殖の改良に先人達がどれだけ努力してきたかということを、改めて知る思いとなりました。先人たちの苦労のおかげで、あの色つやと香りの豊かなうえ健康食品でもある海苔をいつでも味わうことができるようになった、ということを皆さんにも知っていただけたら幸いです。
執筆者
横浜 康継(よこはま・やすつぐ)
元南三陸町自然環境活用センター所長、元筑波大学教授(元筑波大学下田臨海実験センター長)、理学博士、第4回海洋立国推進功労者表彰受賞(2011年)